西の森のトラル

                         「約束」    Engagemento

 

「あっ、トラル!おかえりなさい。 シュゴさまは、お元気でいらっしゃいました?」
と、ミナモが言った。
「トラル!見て!さっき、生まれたんです。ミナモとぼくの赤ちゃんです。」
と、コモレビが言った。

ひとりであり、かつ たくさんである、生まれたばかりのキラメキたちは、好奇心旺盛で、とても目がいい。
「「「おにいちゃん。 何、持ってるの?いいもの、見せて!」」」

まばゆいばかりのキラメキたちにまとわりつかれながら、トラルは右手をそうっと開いた。
そこには、ひとつひとつ違う色の光を放つ、不思議な七つ星てんとう虫が。

「「「きれいーー」」」
と、キラメキたちが、さざめき立つ中、それは、ぴゅりりり・・と、涼やかな羽音を立てて飛び立ち、
トラルのさらさらの蒼髪のかかる肩へ止まった。
「トラル。この川に沿って西の果てへ行けばいいのでしょう?ここから、先は一人で飛んで行きます。道すがら、ワクラバのうわさを聞いたら、お知らせしますからね。では、ごきげんよう。」

あっという間に飛んでいってしまった七色てんとうを、銀の粉のように、少し追いすがってから、
キラメキたちは、また尋ねた。
「「「綺麗なてんとうさんは、西の果てへ何のご用?」」」
「“夕陽の守”のフクマネキが、アブラの大群にやられて、瀕死なんだ。彼女が飛んでいくとそこいら中のてんとう虫がついて行くんだよ。」

それを聞いて、
「まあ・・」
と、ミナモが言った。

「アブラの族(やから)を退治に行かせたのですね。 トラルが、戦をいざなうなんて。それは、シュゴさまのご命令ですか?」
ミナモの非難めいた問いかけに、トラルは、底知れないアイスブルーの瞳を細めて毅然と言い放つ。
「“夕陽の守”には、手出ししない掟だ。再三の忠告も効かない度の過ぎる行為には、荒療治を持って対するより他なかろう。」

「ミナモ。」
と、コモレビが たしなめた。
「トラルは、ここ、西の森の秩序を保っていらっしゃるんだよ。」

「でも・・・。」
と、ミナモが口ごもったときには、トラルは、膝下までもある透き通る細長い羽を拡げもしないで、空に浮かび上がっていた。
「小言なら あとで聞く、ミナモ。 もうひとつ、片付けなければならない仕事があるんだ。」
風にくるまれるように身を反転させると、トラルの姿は、ふしゅっと その場から かき消えた。

「「「かっ・・・・! っこいいいいーーー!」」」
と、キラメキたちが、一斉に叫んだ。
がくりと、テンションを崩されたミナモが、ため息まじりにつぶやく。
「ええ。 いつのまにか、シュゴさまの信が一に厚くなって。 ・・・お跡目にと請われているとか。だから、これくらいでないと務まらないんでしょう・・。」
ありのまま、なすがままで、秩序となっていく存在・・だと思っていた、幼なじみであり、西の森の精霊たちの主であるトラル・・・。
無心に川面に遊び、陽と戯れ、その喜びだけで世界を明るくしていた幼いトラルの生業が、いつまでも いとしくて。

「ただね・・」
と、ミナモは、小さなさざ波を立てた。
「ご無理をなさっていなければいいと・・・、思うの。 それだけ・・。」

憂いをたたえたミナモの頬を、コモレビがチラチラと撫でて なぐさめた。

 


「トラル!見つけましたよ、お探しのワクラバ。やはりというか、もみじ谷で・・・。」

夕刻に戻って来た七色てんとうからの報告に、トラルは小さく息をついた。
「 ―― もみじ谷の吹き寄せか・・・。」

風が掃い、祓いきって逝くところ・・・。
まさか、そこまで憑いて行った?
いや・・。 確認しなければ ―― 。

「ありがとう。 てんとうの姫。 気をつけてお帰り。」

七色てんとうを見送ると、トラルは、細長い透き通る羽を広げ、トンと地を蹴って、空に上がった。


もみじ谷の吹き寄せは、幽玄な風情をかもし出している。

美しくて静かな墓所 ・・・ 。
秋には ここは、トラルの身長を軽く超えてしまうほどに、色とりどりの落葉で埋め尽くされる。
でも今は春で・・・、老枯れた茶色い葉っぱや、病気で落ちた葉が、からからになりながら風に煽られ、谷底に吹き寄せられているのみだ。

そこに ―― 在てはいけないものが居る。

“ ―― ! みつけた。 ”

トラルは、一枚の病葉(わくらば)のもとへ降り立ち、膝をついた。

“ ・・・カリン・・?”

さび病に冒され、死んでしまったそれを、そっと返すと、そこには小さな「葉の子」が、息も絶えだえにしがみついている。
意識すらも混濁している様子の、この小妖精を両手の中に大事に掬いあげて、トラルはもみじ谷を飛び立った。

 

                                                                                                                               

 


――みずみずしい樹液の香りがする。

風が通り抜けるたびに、さやさやと心地よいさやぎが、あちこちから洩れいづる。

リュン・・・、リュン、リュン!!
帰ってきたよ! 私たちの木に!

身体中の生気がよみがえり、苦しかった呼吸が楽になって、心が嬉しさでいっぱいになる。
不安なことはもう何にもなくて・・・!

ぎゅうっと抱きついたら、
こんなに力強く抱きしめ返してくれる!

ああ、そうか。
病気のところ、治ったんだね。
リュン・・。
よく見せて・・・。

・・・・・。

 

・・・・・?


いきなり見開いた紫水晶の瞳と、トラルのアイスブルーの瞳がぶつかった。

「やあ・・。 気がついたみたいだね。 気分はどう?」

少年らしい、程よく筋肉のついた上半身の素肌に、長い二枚羽をするりと透す不思議なジレ(袖なしの長い薄がけ)を羽織りながら、トラルは、安堵の笑みを送る。

「 ・・・・ 」

小さく目をしばたかせて沈黙している少女の目の前で、トラルは、すうーっと 木の葉ほどの彼女と同じ大きさになった。

「誰 ・・ ? 」
「ぼくはトラル。きみの名前は?」
「・・・ハヤ。 ・・・トラル・・って、西の森主さまのトラル・・?」
「へぇ 」
と、トラルは微笑った。
「生まれたばかりで、なんにも知らない子だと思ってたのに。」
「カリンが、たくさん教えてくれたよ。トラルは、シュゴさまの三番めの息子で、いずれは、シュゴさまになられる。西の森の誇りだって。 ・・・でも、もっと たくましくてオトナの方と思ってた。」

どんな想像してたんだ、とトラルは苦笑する。

だが・・・。

「カリンは病気なんだね」
気付かなかった失態に、トラルは顔を曇らせた。
今頃は、あのやさしいピンクの美しい花を咲かせているはずなのに。

「うん・・・。 あのね、葉っぱがこんな風に・・  っ・・?  ―― !!」
がばっと、いきなり半身を起こして、ハヤは、周りを見渡した。
「リュンっ! リュンは?」
「リュンってのは、あの死んでしまったワクラバのことかい?」

ハヤは、透き通る紫色の瞳をあらん限りに見開いてトラルを見返した。

「リュンは死んでない! ―― 谷! あの谷に置き去りにしたのね。」

いきなり立ち上がりかけて、ふら、と倒れてくるハヤの衰弱した体を、トラルは抱きとめた。

「まだ、寝てなくちゃだめだ。 ごらん。」

トラルは、ハヤの腕をとって、その二の腕の内側を見せた。
透き通るように白い皮膚の上に、もんもんと茶色の斑紋が浮き出ている。

「さび病だ。 うつる病気だよ。 もう、あの病葉に触れてはいけない。たとえ、亡き骸でも。」
「やっ!いや!リュン!リュンのところへ行く!離して!!」
「だめだと言ったろう!」

腕の中でもがくハヤをトラルは、片手でさらにぎゅっと抑える。
そのまま額に2本の指先をあて、簡単な鎮静術を施すと、ハヤの意識は、すうーっと遠のいていった。

 

「・・・カリンになんでも教えてもらったんじゃないのか。 ・・・木を離れた葉にくっついて行くなんて!それも、病葉に・・・。 いや・・、教えられなくても、離脱するのが本能だろ・・。 」
トラルは、はあ と、ためいきをついて、褥に横たわらせた葉の子をみつめた。

それにしても ―― 。 急いで、カリンの様子をみてやらねば・・。

ちょっと大変な作業になりそうなので、弱っているこの子をどうしよう、と思う。

トラルは、素肌の上から羽織っただけの、丈の長いジレの合わせをぎゅっと握りしめた。
千年蜘蛛の糸で織った膝下まである、袖なしの薄がけだ。

昨日みたいに ―― 。

昨日みたいに、これを脱いで、直接「気」を送れば、丸一日くらい眠っていてくれるだろうか・・・。

トラルは、小さくかぶりを振った。

それは禁忌なのだ。

千年蜘蛛の糸から織った不思議な衣は、トラルの生命幹に関わるような生気の流出を、徹底して封じ込めるように出来ている。
シュゴであり、母である女神からの固い戒めを、トラルは、あのまま逝ってしまいそうだった葉の子の命を呼び戻すために破った。
一度だけ、と誓って。

実際、トラルにとっては、この衣は しばしばジレンマの種だったが、母の想いを踏みにじりたくはないし、すべてを司るシュゴでない 一介の森主としては、そこまでの権限も与えられていないということなのだ。

閉じた瞼をあきらめたように開け、ジレから手を離すと、トラルは葉の子の褥に膝をかけた。

せめても、と、葉の子の透ける耳朶の後ろにそっと両手をあてる。
そうして、許す限りのエナジーを送り込むと、それを閉じ込めるように、ぎゅっと抱きしめた。
 
おとなしく眠っていてくれよ・・。

身を引きながら そうつぶやくと、トラルは、すっと幕を引くように褥のまわりに結界を敷いた。


 
・・・・夢じゃないよ。
だって、リュンは、私を抱きしめてくれた。
ぎゅうって・・・。
こんなに感覚が残っている。
それなのに・・・。
目が覚めたら、どこにもいなくて・・・。

 


カリンの病葉をすべて落として霊火にくべ、小さな弔いをすませてきたトラルが 葉の子の元へ帰ってきたのは、一昼夜と半分の後だった。

ハヤは目覚めていて、うらめしそうにトラルを見上げた。
どうやら、褥のまわりに張りめぐらせておいた結界に悪戦苦闘したあげくのご立腹らしい。
「どうして、私を閉じ込めるの?!」

トラルは、答えの代わりに、再びハヤの腕をとって、二の腕の斑紋を調べた。

「ああ。消えたね。 ―― なら、大丈夫。 もう、行ってもいいよ。」
トラルは片手で すう、と結界を解いた。

「ただし、大急ぎで、新しい宿り葉を捜すんだ。あんまり遠くへは行けないよ。体力持たないからね。この辺り、で、・・!」
「やっ!!!」
ハヤは、ばしっと、トラルの手を払いのけた。

「リュンのところへ行くの!リュンじゃないといやなの!」
「聞き分けのないことを言うな! 死にたいのか!」
怒鳴った刹那、 今にも零れ落ちそうな雫をたたえているハヤの紫水晶の瞳にぶつかって、トラルの胸は、トクンと鳴った。

「す・・好きにすればいいっ!」
心乱れて、思わず叫んでしまう。

背を向けたトラルの耳に、祠を出て行くハヤの小さな声が、風に乗せられてきたかのように、そっと届いた。

―― ありがと。 ・・・助けてくれて・・。

 

 

空しいのか、切ないのか、はたまた いらいらしているのか、自分の気持ちがわからない。

葉の子が、もみじ谷に向かうのは、わかっていた。
その体力では行き着けないことも。

片膝に頬杖をついたまま、トラルは終日、川べりに座り込んでいた。
トラルがそこに居るだけで嬉しいキラメキたちが、ミナモとトラルの間をきらきらと飛び跳ねている。
そんなキラメキたちをうるさがるでもなく、時折、やってくる蝶々や、かまきりたちの報告にも、うわの空なトラルを、ミナモは、黙って見守っていたが、やがて、そっと声をかけた。

「トラル・・・」
ぼんやりと顔を向けたトラルを、ミナモは柔らかくいざなう。

「入っていらっしゃいな。ひんやりしていて気持ちがいいですよ。」

トラルは、そっと、優しい水面に手を差し入れた。
「そうだね。 ―― でも・・・今日は、いいや。」

心そこにあらずといったふうな力ない応えに、ミナモは哀しくなる。

「 トラルは思うままに生きていらっしゃればよろしいのに。」
「思うまま・・って・・・。 自然の成り行きに出来るだけ手出しするなって、ミナモは、いつも言うじゃないか。」

こんなトラルを、ミナモは見たことがなくて、胸がしめつけられそうになる。

「 “ ―― ねばならない”と思ってなさる事と、“したいこと”は違います。トラルは、森主さまではありませんか。むずかしいことを考えなくても、あなたが なさりたいことが、この森の秩序で、それで森は活き活きしていられるのです。 ・・・トラルがそんなふうだと、西の森は翳ってしまいます。」

傾きかけた朱色の陽の中で、キラメキたちは、もう眠ってしまったようで、昼間のにぎやかさが嘘のように静まっている。

“ああ、そうか・・。”
と、トラルは思った。

葉の子を、自分は強引にあの病葉から引き離して、自然の理に反するからと、あたりまえに正そうとしたのか。
少なくとも、ハヤから思えば、そうなんだ。

でも・・・。

「でも、違うんだ。ミナモ。 ただ ―― 助けたかったんだ。」
「そうでしょうとも。 では、行っていらっしゃればいいです。何度でも。」

トラルの中で悶々としていた想いは、突然、焦燥に変わった。
傾きかけた西陽の中で、立ち上がる。
長い羽をすっと立ち上げて、空へあがったトラルを、ミナモは ほっと見送った。

 

もみじ谷へ行くための山道の途中で、トラルは、そう高くはない空中から落ちて倒れているハヤを見つけた。
抱き起こして、再び、耳朶の後ろから、少しだけ生気を送る。

「・・・ラ・・ル」
焦点の合わない虚ろな瞳をさまよわせながら、ハヤは身じろいだ。
また連れ戻されると思ってか微かな抵抗を見せるが、それも続かず、力なく また瞳を閉じてしまう。

けれども、数時のあと、再び意識を取り戻した時、ハヤは、自分が目指していたもみじ谷にいることを知った。

「君のリュンは、どこに埋もれちゃったかな・・・。」
暮れなずむ茜色の谷の底で、トラルは静かに言った。

吹き寄せられ、重なり、積もり・・。

もう、大好きなリュンがどこにいるのか、到底 探し出せない。
ハヤの瞳が、再び 涙で にじんだ。

朽ちて
やわらかくなって
ふかふかの豊かな・・・。

トラルは、ハヤの手をとって、そっと極上の堆肥の中にうずめた。

「君のリュンも、ここで命の土になる。」
「 ――― 」


「 ・・・ うん。」

長い間かかって、ハヤは頷き、腐葉土の中から、立ち上がった。

そうして、こつんと傍らの少年の胸に額をもたせた時、ハヤの前では、ずっと同じ大きさでいてくれることに、同じ目線で気持ちを捉えようとしてくれているトラルの優しさを知る。

身体の線に沿わせるように細長い二枚の羽を下ろした森主の少年と、ふわふわの綿毛をあしらった、蝶のような丸い四枚羽の妖精の 寄り添い立つ姿が、闇の溜まっていく谷に、影絵のようにとどまっていた。

 

 

翌日から、ハヤの宿り葉捜しが始まった。

けれども、ハヤは、何日経っても見つけられないで、日暮れ前には、果ては昼過ぎにも、バテた様子で戻ってくるのだ。
夜な夜なトラルは、耳朶からエネルギーを送るが、そもそも生の糧が違うのだ。
葉の子は、宿り葉と ただ戯れ遊びながら、お互い命を相乗していくように仕組まれている。

そして、最初に、千年蜘蛛の糸で織った薄掛けを脱いで直かに分かったトラルのエナジーは、ハヤの中で、もう切れかかっていた。


「最初の宿り葉の、カリンのところならどうでしょう?」
というミナモの提案もあって、カリンのところへ連れて行ったりもしたが、ハヤはリュンを思い出して、恐慌状態になってしまった。

本来、葉の子が宿り葉探しに苦労するなどと いうこと事体、自然界では、ついぞ耳にしたこともなくて、トラルは 焦りすら感じ始める。

けれども、そんなトラルのとまどいを知ってか知らずか、ハヤは追い出されるままに、毎朝 森に出て行った。

ぼんやり見上げたり、まるい四枚羽でハタハタと飛び上がってみたりするが、どの葉っぱも、色褪せて面白くなく見えてしまうのは、どうしてだろう。
すーっと降りて行って、はあ、と座り込んだ原っぱで、ふわあと何かが、舞い上がった。
なにー?と、みやると、ぎざぎざ葉っぱの草花の、まあるい台座の上に、さっき飛んでいったのと同じ綿毛が、ぴろ と、一本だけ残っている。

「だあれ?」
と、ハヤが問うと、それは、
「ポポ。 タンポポの綿毛のポポだよー。」
と答えた。

「ふーーん。みんな、楽しそうに飛んでったねー。木の葉っぱは、枝から離れるとき悲しいのに。」
「えーー、そうなのー?わくわくしないのー?どれだけ遠くへ行けるかなーって。 新しいところで、立派なタンポポになるんだもん。」
「へー。そうなのかあ・・。で、ポポちゃんは、なんで行かないの?」
「ポポはねー。 もっと、大っきな風がくるのを待ってるんだ。ずーんと、ずーーんと遠くへ行きたいから!」
「そっかあ。 じゃあ、ハヤが連れていってあげるよ。 ハヤの身体にくっついておいでよ。 」
「ホントぉ? 行く行くー!」

ポポは、きゃっきゃっとはしゃいだ。

すると、まわりのタンポポの綿毛たちも、我も我もと一斉にハヤにくっついて来た。

行こう♪行こう♪
元気いっぱいの行進が始まる。

けれども、ハヤの体力は、昼までも持たなかった。

「ハヤちゃーん。 どうしたのー。ずんと遠くへ行くんじゃなかったのーー。」
ポポは、座り込んでしまったハヤに怪訝そうに問いかける。

「・・ぅ・・ん。 あのね・・・。 今日は、ちょっと、 ・・え、とね。 ちょっとね・・。
続きは、あしたに・・しよ。 ポポちゃん。 トラルのとこに行って、お泊りしよ。」
そう言うと、ハヤは疲労困ぱいした身体を引きずって、苦労して祠に戻ってきた。

 

西の空が赤く染まる頃、祠に一歩入りかけて、トラルは固まった。

外からの風で一斉に舞い上がった綿毛たちが、きゃいきゃいと まとわりつく。
こんな普通じゃないことを巻き起こす犯人は、言わずと知れている。

「ハヤっ!」
大きな声で叫ぶと、褥のほうから、ハヤの か細い声が聞こえてきた。

「だめー・・。 トラル・・。 ポポちゃんたち、踏んずけちゃ・・だめ・・だよぉ。 ・・・・・。」

その間にも、綿毛たちは、元気いっぱいで、
「お泊り!お泊り!」
「明日は、ずんと、遠くへ行くよーー♪」
と、はしゃいでいる。

トラルは溜め息をつくと、綿毛たちをすっと天井近くの空中に浮き上がらせ、そのまま降りて来られないように、軽く結界を引いた。

「今夜は、そこにおいで。 朝になったら、いい風に乗せてあげるから。」

そう綿毛たちに言い聞かせると、
「 ・・・ で?」
と、トラルは、こわもてで褥を振り返った。

「自分のするべきことを放り出して、綿毛たちの面倒を見ようってか?」

だが、ハヤの血の気の引いた ただならぬ様子に、トラルは、息を詰めた。

「ハヤ!!」

肩をゆさぶっても、もう意識のない様子に、トラルの胸はふさがる。
千年蜘蛛の衣を脱ぎ捨てて素肌になり、身体をあわせることに、今は、何のためらいも迷いもなかった。

 


深夜 ――

「きゃあーーーっ♪」
という嬌声が、トラルの重い頭に突き刺さった。

気だるい体を持てあますように身を起こして、ようやく ハヤの寝床で そのまま眠ってしまっていた自分を認識する。
そして、綿毛たちと、天井近くで飛び回って、はしゃいでいるハヤを。

張っておいた結界は、軽い綿毛たちを留め置くためだけのものなので、ハヤには、難なく通り抜けられて当然なのだが、  ・・・・問題は、そこではなく・・・。

「 ・・・ハヤ・・・。」
トラルは、ずきずきと痛む頭を両手で抱えた。

「 ――― 寝てくれ・・。」

ハヤは、無邪気にハタハタと降りて来ると、
「床に落ちてたよー。 ちゃんと着とかないと。」
と言って、トラルにジレを着せ掛けた。

あどけない笑顔に怒る気も失せる。

「 ・・ん。」
と言って、それを羽織ると、パタンと、また、身体を倒した。

「ポポちゃんたちを送ってくれるんだって?」
きらきらと瞳を輝かせて、ハヤがのぞき込む。

「 ・・ん。」

無造作に答えると、ハヤは、きゅっと、トラルに抱きついた。
「トラル、大好き!!」

月明かりだけの薄闇の中で、トラルの胸が トクン と音を立てる。

とくとくとく と、続けざま鳴り止まない、甘酸っぱい苦しさから逃れるように、トラルは寝返りを打った。

 


だが ――
朝になると、トラルは、現実に立ち返らざるを得なかった。

このままで済むはずがない。

ハヤの元気だって、いつまでもは持たないし、実際、自身の体の変調が半端ではなかった。

「起きろ、ハヤ!」

「 ・・うぅ・・ん・・。 あー ? ポポちゃんたちは?」
「とっくに、送り出した。」
「ええー! バイバイも言ってないのにーー!」
「あっちは、言ってたさ。」
「ええーー! やだやだっ!どっちへ行ったのお?」

トラルは、思いっきり顔をしかめると、真摯なまなざしでハヤに訴える。
「 ―― ハヤ。 たいがいにしてくれ。 ちゃんと、宿り葉をみつけて来るんだ。」

ハヤは、少し哀しそうに うつむいた。

「でもね・・。 あのね・・。」
「でもも、あのも、ないんだ。 だめなんだ!」

何か言いたげなハヤの言い分を聞いてやりそうになる自分を押し込めて、
トラルは とうとう恐い顔で宣告をした。

「今日からは、見つけられないで戻ってきたら お仕置きだ。」

 


春は終わりかけ、初夏に向かって、新緑が鮮やかになってきていた。


「 ―― と言うわけなのよ。」
と、ハヤは、イチジクの大木の下へ寝そべって、真上の葉っぱに話しかけていた。

大きくてやわらかなイチジクの葉っぱとは、実はハヤは、早いうちから友達になっていた。
むろん、トラルには、報告していない。
そんなこと、しゃべったら、性急に やれそれ言うに決まっているからだ。

「ねえねえ。おしおきって何されるのかなあ。」

「そりゃあさあ、きっとアレだぜ。おしりペンペン。」
イチジクの葉のジクーは、おもしろそうに答える。

「うっそぉ、信じられない。やだなー。 ハヤ、もうジクーに決めよっかなー。」

ハヤがぼやくと、ジクーは、
「そーしよー、そーしよー!おれは、ハヤのことペンしないぞ。ずっと一緒に遊ぼーぜ!」
と、体をハタハタさせて喜んだ。

うふふっと、ハヤは笑って起き上がり、背伸びをして、ジクーの柔らかな葉に、頬をすり寄せた。

「トラルって、怒ると恐いからねー。」


しかし、日暮れてくると、ハヤは、テンションが下がってきて、ジクーから離れた。

「やっぱり、帰る。」
「えー。だって、ペンされるんだろー?」
「 ・・・。 しないかも。 だって・・・そんなこと言っても、トラルは本当は優しいんだよ。」

そう言いながら、ハヤの脳裏に浮かぶのは、最近なぜか元気のないトラルの姿だった。
すると、なんだかむしょうに心配になって、居ても立ってもいられなくなる。

「そっかー。じゃあ、また気が変わったら来いよな。」

気さくにそう言ってくれるジクーに
「ん。バイバイ!」
と、手を振って、ハヤはふわっと浮き上がった。

夕刻にこんなに元気でいられるのは、ないことだった。
いつもは、死にそうなくらいヘトヘトなのだ。

“一日中、ジクーと一緒に居たからかなあ。やっぱり、ハヤは、葉っぱと一緒じゃないといけないのかなあ。”

 ―― だから、毎日そう言ってるじゃないか。
と、上から目線なトラルの声が聞こえそうである。

“だけど・・・、だけど、トラルと一緒だと、ハヤは朝には元気だもん。”

ひとり、ぶつぶつ言いながら、帰ってきた祠には、いつもの優しいランプの灯りが灯っていない。

 ・・・まだ、帰ってきていないの?

そっと、扉をあけると、褥のあたりに、たくさんの小さな、なにか不思議で優美な光が、ふわふわと飛んでいた。
何・・・?
と、思う間もなく、その仄かな光に照らされて横たわるトラルの姿を認識する。

青白い横顔に片側だけ見える瞳は固く閉ざされて、まるで、息をしていないように思えた。

「トラル・・・? トラルっ!!」

思わず乱暴に肩をゆすると、まわりを取り囲んでいた小さな光が、いっせいにぱっと散り去った。

「・・・・ん・・。 ぅ ・・ 。 ――ハヤ・・?」
「びっくりした。 トラル、眠ってたの? 具合悪い?」

トラルは、ごそごそと半身を起こして、ハヤをみつめた。

「 ・・・ 灯り・・つけて・・。」
と、静かに言われて、ハヤは、ランプに灯を灯した。

「ねえ。 ・・あれ、なに?」
窓のほうへ飛んでいってふわふわしている小さな光を指差して問う。

「ああ・・。」
と、トラルは、けだるそうに答えた。

「蛍だよ。ミナモが心配して、寄越したんだろ。」

立ち上がって、窓辺へ歩み寄ると、トラルは両手を差し出すように、それらを外へいざなった。
「もう、お帰り。 大丈夫だから。」


なんだ、なんだ。ホタルって、なんだ? 虫さん? なんで、光ってるの?
でも、でも!!!
そんなことより、なにが、“大丈夫”なの?

いっぱいいっぱいになって、ふがふがしているハヤを、トラルは、あらためて振り返り、淡白に問うた。

「なんで、帰ってきたの?」
「なんでって・・・。 いや、その・・。 え・・・?」

おしおきとか言ってたけど・・、帰ってくるなとは言われてないはず・・デス;;
あたふたしているハヤに、トラルは、言葉を継ぐ。

「見つけたんだろ?イチジクの子に決めたんじゃないの?」
「・・あ・・。 ・・な・・・んで、知って・・・。」
「だって、今日一日あそこにいたじゃないか。それで、今日は、こんなに元気だし。」

・・・見てたんだ。
―― え。 一日中?

「・・で、も。 ジクーは・・・。 す、好きだけど・・、でも、ちが・・。」

「 ・・・ふーん。 ジクーって言うんだ。」

うっわ・・! なんなんだ。この空気。この展開。 なんだか、浮気現場をみとがめられて、責められてるみたい・・・?な、わけないじゃん;;  ひえーーっ。ハヤ、わかんないよーーー。

「違う ―― ? って、どういうこと? 違うんだったら、あそこで、一日中サボってたんだ。」

褥に戻ってきたトラルは、さらに言い募りながら、言葉がみつからないハヤの手首をとって引き寄せた。

「お仕置きだね。」

とっさにハヤは、つかまえられていない方の手で、お尻をかばいながら、後ずさる。
だが、そんな抵抗を難なく ほどくと、トラルは膝の上にハヤを引っ張りあげた。

「やっ!」
トラルは、暴れる小さな両手を、片手で造作もなく背中に捉え、薄緑色のチュニックの裾をまくりあげた。
下穿きなんか着けていないハヤのお尻は、露骨に剥き出しになって、トラルの冷めたまなざしの下に晒される。

唐突に、ハヤは生まれて初めて、死ぬほど恥ずかしいと感じた。

昼間、ジクーと、おしりぺんの話をしたときには、“痛いとやだなー” としか思ってなかったのに。
どうしてか わからないまま、耳の端まで、真っ赤になる。

「やっ! いやっ! やめて! トラルのばかっ!」
「ばか?」
ぴしゃん!と、平手がお尻の真ん中に降って来た。
「わあんっ!」
と、身をのけぞらせるが、実は、思ったほどには痛くはなかった。

それでも、この恥ずかしい体勢からは、一刻も早く逃れたい。

いやだいやだいやだっ!

大きなしずくが、紫水晶の瞳いっぱいに潤んでくる。

ぴしゃん! ぴしゃり!
ぱんっ!ぱん!
ぴしゃっ!

だんだん我慢できなくなるほどに痛くなってくるお尻を、容赦なく無言で叩かれながら、ハヤは、捉えどころのない 哀しさに襲われた。

どうして、トラルは怒っているの?

ハヤは、トラルの膝から垂れ落ちている不思議な手触りの衣をぎゅっと握り締めた。

ばかって言ったから?
ちゃんと葉っぱを見つけられないから?
ハヤは帰ってきちゃいけなかったの?
トラルは、ハヤのこと邪魔なの?

涙が ぱたぱたと音を立てて、床に落ちる。

トラルが、ふいに振り上げた手を止めた。

「ハヤ。 ・・・明日は、ちゃんと頑張れるのか。」

うん、とか、頑張るとか、ごめんなさいとか、・・・なんか言わないと、きっとまた ぶたれる。

そうは思うが、ハヤは、どれも言えない。

だって、ハヤは・・・。

切なくて、また、続けざまに涙が零れ落ちた。
と、今度は膝の上に座らされて、トラルの腕がゆっくりと動いた。

ほっぺたでもぶたれるかと こわばらせた身体を包み込んだのは、華奢な背中にそっとまわされたトラルの腕だった。

 

「 ―― 泣くなよ。」

困ったような、低い声が背中越しに聞こえた。

そのまま、ぎゅうっと抱きしめられて、ハヤは、はっと顔を上げた。

この感覚は・・・

夢の中のリュンだと、ずっと思っていたのに・・・。

 
胸が、きゅんとなる。

ちょっぴり、感激。。
なんだか、嬉しくて、ほんのり、しあわせで・・。


そうは言っても、翌朝も 容赦なくお尻は痛かった。

“ トラルのオニ! ”
隣でまだ眠っているトラルを、いつもと違う感慨で眺めながら、でも恐いので、こっそり心の中で
うそぶいてみる。

“今日も見つけられなかったら、おしおきされるのかなあ・・・。”

いつでも、ハヤよりも早くに起きていて、時には先に出掛けていたりする、生真面目なトラルが、今朝はまだ眠っていることには、さして気にもかけず、ハヤは、あきらめて起き上がった。

「行ってくるね・・。」
と、とりあえず声をかけると、起きていたのか、
「うん。」
と、返事が返ってきた。

 

 

「 ・・・・ 変ですね。 それは。 ありえません。」

いつも、陽が昇る前には起きだしてくるトラルが、ハヤが出かけるときに、まだ寝ていたと聞いて、ミナモが言った。

「そう・・・だよね。」
と、ハヤは、川べりに座り込んだまま、ぼんやりと同意したが、ミナモの強い口調に思わず問い返す。

「え・・。 ありえない?」

「ええ。 最近、ここにも顔を見せられないし、シュゴさまのお呼び出しにも、お出向きにならないので、夕べは、ホタルに様子を見に行かせたんですよ。そうしたら、臥せっているっていうし・・。」

「え・・・。 臥せっていたの? ・・・って、病気なの?」
聞き返すばかりのハヤは、ミナモにチラリと見られて、たじろぐ。

「え・・と。 元気ないかなって、最近思ってはいたけど、だって、夕べは・・・。」

「夕べは ―― 、 ・・・どうでしたの?」
お仕置きされたなんて言えずに、さらにしどもどしているハヤを通り越して、空を見上げたミナモとコモレビは、
「「あっ!!」」
と、同時に叫んだ。

森中がざわめいている。

「なあに?」
「東の森のシャルドと北の森のテイルですよ。トラルのお兄様たちです。100年前のあの大惨事以来、トラルとシャルドの間には、消えない軋轢がありますからね。向こうからやって来るなんて・・・これは、ますます ただ事ではありません。」
「100年前の大惨事?」
「大火事があったんです。東の森で、シャルドが監視を怠ったために、火災が起こって、そればかりか、退路を断つために、西へ煽ったのですわ。西の森は、もう目も当てられない有様で・・・。あのときの、すべてを投げ打って森を救おうとして果たせず、ぼろぼろになって立ち竦んでいたトラルの姿は100年経つとも忘れられませんわ。」

「 ――― 。  わたし・・・、帰ってみる。」

心配そうに駆け出したハヤの後ろ姿を見送りながら、コモレビが、ミナモにつぶやいた。
「なあ。 あの子は、いったいどうなっているんだ?」

「ハヤは・・・綺麗になりました。 わずか ふた月 経たないうちに、あんなにすらりとした娘に育つなんて・・。」
「 育つ・・っていうのが、そもそも ―― 。」
コモレビが、たらりと汗を垂らす。

「 葉の子っていうのは、一生、葉っぱと戯れているもので、幼な子の姿のままだろ、普通。」
「 コモレビ。 ――どうか、それ以上言わないでくださいな。 私、考えないようにしているんですから。 “変”がいっぱいで、不安でおかしくなりそうなんですわ。」

微妙な会話をやりとりしながら、ふたりは横目で顔を見合わせた。

 

一方、トラルは褥の中で、違和感を感じていた。

寝(やす)んでいれば良くなると思っていた締め付けられる痛みと気だるさはひどくなっていく一方で、じっと霞む目を閉じて、身を横たえていたが、そんな重い瞼の奥でも、神経を張りめぐらせている西の森の違和は感じる。

「 ――― 」

そろりと身を起こし、やっと立ち上がったちょうどその時、二人の青年が、まるで風が吹き込むように無遠慮に入ってきた。

「やあ、トラル。」

「 ・・・・シャルド。 テイル・・。」
「あいかわらずだな。せめて、兄さま、くらい付けられんのか。」

背の高い、陽色の髪の東の森主が、けげんそうに名を呼んだ弟の顎を片手にとり軽口を叩く。

「 ―― 何の用です。」
「あいさつの言葉も出ぬうちに、何の用かとは、これまた高飛車なご質問で。 シュゴさまの覚えめでたき御身になると、そう来るか。」

「シャルド兄さん。あんまり、苛めちゃだめですよ。」

テイルの諌め言など意にも介さず、シャルドは続けた。

「だが、さすがにそのシュゴさまの召喚もシカトっちゃ、まずいんじゃないの?」
戯言を続けるシャルドを遮るように、テイルが口をはさんだ。
「トラル・・・。 ここへくる途中で見かけたんだが、コトの湖で、魚たちが、たくさん腹を出して浮いていた。何かあったんじゃないのか。」
心配そうに覗き込むテイルに一瞬見せた翳りを、トラルは硬い表情の中に押し隠す。

「おいっ!」
シャルドは、そんなトラルの肩をいきなり掴んで乱暴にゆすった。

だが、ただそれだけのことで、トラルは、抗いもなく紙切れのように倒れていく。

とっさに受け止めたシャルドの手の中で、何かがガシャリと乾いた音を立てて砕けた。

「きゃああ! ・・あっ、あ・・」
いつから居たものか、入り口でハヤが両手で口元を押さえて叫んだ。

目の前で、トラルの綺麗な長い羽の片側が、まるで、乾ききった枯れ葉のように、砕かれて床に落ちたのだ。

ひっと、息を呑んだシャルドに いきなり手を離されて、トラルは自らの羽の残がいの上に ストンと尻もちを着いた。
恨めしげな視線を一瞬シャルドに向けるが、すぐに顔を逸らして、小さく下唇を噛む。

兄たちのほうは、このとんでもない事態に、しばらく言葉も失くして呆然としていたが、やがて、シャルドが気まずそうに、けれども、確信を得たかのように呟いた。

「 ・・・なるほどね・・。 その有り様じゃあ、シュゴさまのところへ行けないどころか、西の森の管理もままならない訳だ。」

「 に・・ぃさ・・・んには、言われたくない・・」
トラルのほうも、唐突に片羽を潰された動揺を押し殺しながら、切り返す。

「 な・・んだと?!」
100年の間、言葉にならずに、積もってきた何かが、二人の中で湧き上がってきた。

「やめてっ!」
「シャルド兄さん!」
ハヤとテイルが、トラルの襟首を掴んで乱暴に引き上げるシャルドを止めに駆け寄った その時、
「おやめなさい!!」
と、凛とした声が響いた。

皆がはっと動きを止めて、振り返ると、そこには、燦然とした輝きを放つ背の高い美しい女神が立っていた。

「「シュゴさま!」」
シャルドとテイルが同時に叫んで跪く。

「 ・・・シュゴさま・・?」
ハヤは、再び崩れ落ちたトラルに寄り添いながら、初めてまみえるシュゴさまに見入った。

後ろに付き従っていたトラルに良く似た面差しのたおやかな少女が、
「 トラル兄さま!!」
と、叫んで駆け寄ってくる。

南の森を守っているというトラルの妹君だと、ハヤは自然に理解した。

 


びしーっ!と、厳しい音が小さな祠中に響いた。
トラルのものと同じ千年蜘蛛の糸で織った長い薄がけだけをたくし上げられて、シャルドは、お尻を打たれていた。

「 ----- っ! てーーーーっっ!!!」

なんだか その杖の威力は尋常ではないらしく、シャルドは壁に突いていた両手を 打たれたお尻にまわして、飛び跳ねた。

「もどりなさい!まだ終わっていませんよ。」
「 ・・・・っ、は、母上っ。 おれ、そんなに酷いことしていません! トラルが無茶苦茶なんだ。 触っただけで、壊れてしまっ・・!」

涙目で訴えるシャルドの身体を再び壁に直らせて、女神は再びそのとんでもない杖で、ビシィーッ!と打ち据えた。

「 ――- っ!! てっ!いてーーーっ!!」

シャルドは、今度は床にうずくまった。 
打たれているのは、お尻なのに、脳天まで突き上げる痛みだ。

その痛みを回数の違いこそあれ、身をもって知っている三人の子供たちは、身をすくめて見ている。

「だから、“そっと” 様子を見てきて、と頼んだのじゃないですか。 どうして、いつまでも、そんなに乱暴なのです! さあ、立ちなさい。ちゃんとできなければ、くくりの術を使って、みんなの前で、お尻を出しましょうか?」

羞恥や理不尽な怒りや、いろいろな感情がないまぜになって、シャルドの顔は耳まで朱に染まった。
意地のように立ち上がり、ドンッと壁に手を突く。
言いたいことをすべて噛み潰すように、奥歯をかみ締めた。

再び ひゅっと、振りあげられた杖の動きを、だが トラルの 「母上!」という声が止めた。

「 ・・・シャルド・・兄さんが、悪いのじゃありません。 ―― 申し訳ありません。 すべて、ぼくが引き起こした結果です。 お呼びにも参上せず、 ―-―― 何より ・・・言いつけに、・・掟に背きました。 」

ハヤと、三人の兄妹たちが、きょとんと静まり返る中で、シュゴ神だけが、ふうっと息をついた。

「トラル。 自分で立てるなら、こちらへ来なさい。」

そっと振り返ったシャルドが、脱力したように、壁にコツンと背もたれて、成り行きを見守る。
トラルは、手を貸そうとするハヤを静かに拒んで、ふらりと立ち上がった。

「 困った子・・・。 己を顧みないことが、引いては何を引き起こすのか、わからなかったはずは
ないでしょう。 でも、まずは ―― もちろん、喧嘩両成敗です。」

女神は、前まで進み出たトラルの片手をとって、自分の胸に抱き寄せるように もたせかけると、パン、パンっと、二度、お尻を叩いた。

「なんなんだ、あれっ! ほこりをはたいてんのかよ!?」
それを指差しながら、涙目で訴えているシャルドに、ザザが冷ややかに言い放つ。
「トラルお兄さまは、あんなに弱ってるんだから仕方ないでしょ?」

そんな 周囲のざわ言を意にも介さず、シュゴは、トラルの頬を白いたおやかな両手で包み込んだ。

「シャルドに言いたいことがあったら、今、ここで全部話しておしまいなさい。 あなたには、もう時間がありません。」

「 ――― 」

その言葉を覚悟のように受け止めて、トラルは、壁際に立つシャルドに視線を向けた。

「兄さんは ―― 何にでも詳しくて、ぼくは・・、小さいころから、ずっと尊敬していた。 あの惨禍のときも、兄さんが、伏流水を押し上げて、あれ以上の被害を食い止めたのを後になって知って、すごいと思った。 地下水脈を地上へあげるのは、とても難しくて、水脈を知り尽くしていないと出来ない。それに。 西の森が、一番、ひどかったのは、成り行きで仕方なかったことだし ――― みんな、必死で頑張ったんだ。 なのに・・・、シャルド兄さんは、あれから、ずっと、変わってしまった・・。」 

生来、寡黙なトラルの堰を切ったような告白に、饒舌なシャルドが言葉を失くして、弟をみつめた。


思い起こせば、トラルは、幼い頃には、いつだって、おれの後をついてきた。
かわいくて、なんでも教えてやりたかった。
まるで、砂地が水を吸い込むように、おれの知識を吸収し、さらにその上へと、知恵を働かせた。

いつか ―― こいつは、おれを追い越す。

・・・・けむたかったのは、あの大災害よりも、ずっと前からだったんだ。

森を四っつに分け与えられて程ない頃、あの大災害が起こった。 
地下の探検に夢中になっていて、人間の火の不始末を見逃したおれの失態から・・。

でも、あれから、しばらくして、トラルは、水脈の見つけ方を聞いてきた。
おれは・・・、それが厭味に思えて・・・・。

大好きだった兄の愚鈍なこだわりから、事あるごとに辛くあたられて、どうしていいのかわからず佇んでいた いたいけな姿が、今になって甦る。

そうして、いつしか、弟は、孤高の鷹のように独り立ちし、兄の心無い絡みに対峙すらするようになってきたのだ。

「ちゃんと・・・聞きましたか?シャルド。」

――女神は、右手にトラルを擁いたまま、左手にシャルドを引き寄せ、いとおしそうに抱きしめた。

「ばかね。100年も、負い目を溜め込んで・・・。でも、もう自分を責めなくていいのよ。」

突っ張っていた心の中身をほどかれて、母の胸にうずめたシャルドの頬が上気した。

「みんなが、わだかまりを消してしまうまで、私は、100年も引退を遅らせたのですわ。 これで、やっと、新しいシュゴを決める事が出来ます。 でも、その前に・・・。」

女神は、二人を腕の中から解き放ち、傍らの末の妹もいざなって、四人を自分の前に並ばせた。

「あの大火事のあと、力を放出しすぎて、命さえ危うかったあなたたちに、私は、千年蜘蛛の糸で紡いだ衣を授けました。 あなたたち自身の身を守る縛(いまし)めとして。何かにエナジーを放出するとき、決して、肌身から離さぬようにと ――― そう言いつけました。 
そうね、トラル。 それなのに ―― こんなことになった釈明をしなさい。」

「 ―― 釈明は ありません。 どんな罰でも受けます。」

片羽を失くし、まっすぐに立っていることすら危うげでありながら、トラルは、相変わらず、気高く、淀みなく凛として答えた。

「語らぬことばかりが美徳ではありません。 私の想いを踏みにじって掟を破り、釈明のひとつもしないでは通りませんよ、 トラル!」 

厳しめな女神の声に、三人の子供たちに緊張が走った。
母であるシュゴ神が、秘蔵っ子であるトラルに こんな風にきつい言葉を発するのを、初めて聞いたからだ。

一方、穏やかならぬ空気の中で、ハヤの胸もトクトクと音を立てていた。

なに・・・。
なにをしたって、叱られているの?
なんだって、こんなことになってんの?
カリンは、トラルが次のシュゴさまになられるって言ってたのに、どうして・・・。
時間がないって、どういうこと?

「あなたが言えないのなら、私が代わりに言いましょうか?!」

ハヤが、不安の渦に巻かれて泣きそうになっている間にも、シュゴは、トラルにきつく言い募る。

「 ――ハヤ。」
トラルは、ゆっくりとハヤを振り返った。
「外に出ていろ。」

えっ、と うろたえる間もなく、シュゴの厳しい声が飛んだ。

「いいえ。 そこの葉の子も、わかっていなくてはなりません。」

「「 葉の子?! 」」
テイルとザザが同時に振り返った。

「この子が?」
「西の森では、葉の子って、こんな・・・。」

口々に疑問を発するテイルとザザに、いつ見極めたのか、シャルドが神妙な表情で教えた。

「 『葉の子』だよ。 西の森だろうが、南の森だろうが、葉の子は、みんな同じさ。 トラルが、自分のエナジーを送ったんだ。千年蜘蛛の衣のフィルターを通さずに・・さ。 」

言葉にならない感情の迸りが、シャルドの声を詰まらせた。

「葉を離れれば、葉の子は、数日で死んでしまう。 それが・・・、ここまで形骸を変えるまで、存えさせるなんて ―― っ! 」

シャルドは、トラルに向けて伸ばした両のこぶしを抑えて、握りしめた。

「 ばかだ、おまえ! いや、わからなかったなんて、とぼけた言い訳は聞かないぞ!」

シャルドの怒りが、トラルの身を案じてのことであるのが瞭然とわかっても、ハヤの心臓は、今 聞いた事実に張り裂けそうだった。

ハヤは、自分が眠ってしまってから、トラルが抱きしめてくれる夜があることを、ある時から気付いていた。
 
そして、あの。。不思議な薄がけ・・・。

ハヤは、二度だけ、トラルが素肌でいるところを見たことがある。
最初の時と・・・、それから、綿毛たちを連れて来て、倒れてしまったあの日 ―― 。

どちらも・・・命の灯は、消えかけていた。

そして、翌朝は、細胞が入れ替わったように元気でいられて嬉しくて、なぜか隣りで素肌で眠っているトラルに抱きつきたくて・・。
でも、そんなハヤをトラルは叱って、宿り葉をみつけてくるように厳しく言うのだ。

絶対であるシュゴさまの禁を破り、ハヤのために命の素を削るように分け与えたのだ・・・という
たった今、聞かされた真実を裏付ける記憶・・・。

                                                                                                                          

 

「シュ・・ゴさま、 赦してください! ハヤが いけなかったんです。 ハヤは知らなくて。 ハヤは、トラルの傍にいたくて! でも 今すぐ ここを出て、一番最初に見た葉っぱのところに行きます! どうか、トラルを助けて!!」

震えながら叫ぶと、ハヤは、ダッと入り口へと走った。
外のまばゆい光の中で、さざめいている たくさんの葉が、ハヤの目に飛び込んでくる。

どれでもいい!
もう、どれでもいいんだ。
トラルでないなら、どれでもよかったんだ!!

滲んで、ぼやけて、何も見えないけれど
もういいんだ!

出口に右手をかけて、まさに表に飛び出そうとしたハヤの体を
「 行くなっ!」
という、トラルの大きな声が押しとどめた。

トラルのゆれるアイスブルーの瞳に、大きく見開かれたハヤの紫水晶の瞳が映る。

い・・や・・。
行かせるべきなんだ。
もう、守ってやれない ―― 。

思わず叫んでしまってからの葛藤・・。

それでも、トラルは、何かを ふりしぼるように繰り返した。

「 ・・・行くな。ハヤ」

再びの小さな、けれども、はっきりとしたトラルの声が、ハヤの胸に響く。

誰もが息を止めて、見つめ合うふたりに見入った。

葉っぱの大きさに自在に適応して生きるとはいえ、本来、幼くて小さな小妖精である、目の前の葉の子は、今、確かに、すらりとして、四精霊のひとりであるザザを凌ぐほどに美しい少女に変化していた。

 

「 ―― トラルの処遇と、新しいシュゴの任命をします。」

シュゴは、一度深く閉じた瞼を上げて、静かに全員を見まわした。

「これは、シュゴの杖です。」
そういうと女神は、持ち手がUの字に曲がった杖を差し出した。

「あ。 お仕置き棒だ・・・。」
と、テイルがぼそっと、つぶやく。
先ほど、シャルドが ぶたれた、得体の知れない力を持つ杖だ。

「何を言っていますか。これは、シュゴの魔法の杖です。これを揮うとき、さまざまな真実を汲み上げながら、天から授かる無限の力が生み出されます。これは、真に心根の出来た者にしか渡せません。そうでなければ、逆に、持つ者が扱いきれず、苦痛で、負担なのです。」

シュゴは、四人の前に一歩踏み出した。

「 ・・・これを ―― シャルド、あなたに預けます。」

 

一時に、たくさんのことが流れ込んできて、茫然として立ち尽くしているばかりのハヤだったが、
もう、何がどう動こうとしているのかは、はっきりとわかる。


カリンも、ミナモも、あんなに誇らしげに言ってたのに。
トラルが、シュゴさまになるって。
トラルは、あんなに、自分の生業に一生懸命だったのに!
あんなにも全身全霊で、森のすべてを愛しているのに!
わたしのせいなの?
わたしが、トラルのすべてをだめにしたの?

心の震えが止まらない。

「 ・・・シュゴさま。」
と、控えめなシャルドの声がした。

「シュゴの大役は、おれ・・、私の器ではない。わかります。 辞退させていただきたい。」

シュゴは、静かに微笑んだ。

「魔法の杖は、あなたの本当の素晴らしさを引き出してくれたようですね。 私は本当に嬉しいです、シャルド。 大丈夫です。 私が補佐しますから、どうぞ心配しないで 100年ばかり、務めてください。 そうしてね、トラルが戻ってきたら、正式に、あなたから手渡してあげて欲しいの。」

伏し目がちに俯いていたトラルの、ゆるゆると揺れて見えるアイスブルーの瞳が、無感情に女神を見上げた。

「あの大火事の時に、他への制御ないエナジーの放出が、自らにどれほどのダメージを与えるか、身を持って思い知ったはずのあなたたちに、私は、千年蜘蛛の衣を授けました。あなたたちに、もうあんな思いはさせたくなくて・・・。けれども、トラル。あなたは、私の切なる願いを踏みにじっても ――― ひとりの葉の子を救いたかった。それは、自らを顧みず、他を愛するあなたの証しでした。 私のもうひとつの思惑は、・・・どの子が、それを最初に侵すのか見極めることでした。 ・・・その者こそが、まごうことなき次代のシュゴとなる者だからです。」

そういうと、母であり、主である女神は、トラルの前に膝を折った。
テイルとザザが、はっと、女神に続く。

そうしていながら、けれども母は、哀しげにトラルを見上げた。

「でも、あなたは、このままではもう この精霊界には居られません。 ・・・もう、その身体は使えないのです。 ですから、私の最後の力で、あなたを人間の世界に、転生させます。 人間の一生を終えたら、ここに還っていらっしゃい。」

はっ、と、閃いたように、シャルドが、その表情をあかるくした。

「そうか。 わかったよ、 トラル。 ちゃんと戻って来い。 その時は、おれは、お前に跪いて、この杖を返そう。」

「 ・・・ 母・・上。 シャルド・・兄さん。」

従うしか道のないことを知りつつ、トラルは、小さく唇を噛んだ。

ごめん・・・。 ミナモ、・・・コモレビ、キラメキ、カリン、・・森中のみんな・・
ハヤ・・・!

やっと立っている その身体中から、くらむような光が漏れ出していく。

「 ・・い・・や・・。 いや! トラル!行かないで!!」

引き止めようと追いすがったハヤの両手は、受け止めようとするトラルの身体を するりとすり抜ける。

前のめりに倒れるハヤの身体をシュゴが抱きとめた。

「あなたも ―― 行くのよ。
この世界では、あなたとトラルは連れ添えないの。 だから、行きなさい。
可能な限り、同じ時間軸、出来るだけ近い場所に送り届けます。
必ず、見つけなさい。
そして、幸せな一生を送っていらっしゃい。
トラルに愛されて、愛してくれたあなたに、私からの一回きりの贈り物ですよ。」

「シュゴさま・・!!」

ハヤは、消えていくトラルの姿の傍で、自らの身体が、その光に取り巻かれていくのに気付く。

「わたし、必ず見つけます! トラル!絶対 見つけるよ!」

光の螺旋の中に、意識ごと消えゆきながら、ハヤは、シュゴの遠くなる声を聞いた。

 

―― 憶えておきなさい。 ハヤ。
トラルは、人間の世界にあっても、必ず自分の王国を創り出しているでしょう。
あなたは、きっと見つけられます ――

必ず、見つけるのですよ ―――

 

 

 

 

***************************************

 

 

精神世界の王国を築いた青年がいる。
その文明の発展を祈って・・・。

何かを求めて止まない少女がいる。
明るくて、前向きで、自分に素直な少女・・・。

精神の世界で、少女は、青年の創り出した王国に魅せられた。


某年8月20日


『私』は、ここにいます。。。

と、彼女は伝える。


ア イ タ イ


関東か・・・。
遠いな・・・ 

と、西の彼は言った。

 

「約束」の糸がたぐり寄せられた日 ――― 。

 

 

***************************************

 

持ち手が Uの字に曲がった杖を 弄びながら・・・


ねー、 とら。
あたし、このケインにトクベツなものを感じるんだー。
なんでかなあ。
生まれる前から知ってるような、大事ーなものみたいな気がするの。


そりゃ、そうだろ。
これは、「魔法の杖」なんだからさ。


えっ、えええ、そうなの?


そうさ。
だって、これは、はやとが悪い子の時に、いい子にするための「魔法の杖」だもんな。


・・・・・・・っ! っ!

 

 


                                            〜Fin〜  

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