騎士物語 8
夜勤中、衛兵詰め所で仮眠を取っていたカノンは、同僚にゆさぶられ、起こされた。
「賊か?」
跳ね起きて、傍らの剣を取ったカノンに、同僚は、にやりと笑いかけた。
「オペラ座へお供せよ、だとさ」
「またか・・・」
最近王妃は、夜な夜な、お忍びで、仮装舞踏会に出かける。
宮殿への出入りを許されていない、身分の低い貴族たちが、オペラ座で繰り広げるらんちき騒ぎが、ことのほかお気に入りだ。
悪い取り巻きに囲まれ、政務をおろそかにし、国王陛下を蔑ろにし、あまり褒められたご行状ではない。
「困ったものだ」と、ヘミオラも、眉をひそめている。王妃のご乱行のお供は、若い近衛兵たちだ。
兄からは
「王妃さまから、いかがわしい場所へのお供を仰せつかったら、お諫めせよ」と言われているが、カノンは王妃に進言できず、結局、仰せに従ってしまう。
仮装舞踏会だから、随行の近衛兵も制服を脱ぎ、それぞれの仮装で出かける。
舞踏会中は、もちろん王妃の護衛が任務だが、お忍びだから正式な公務での護衛よりは、気が楽だ。
王妃は
さすがに酒は控えるが、お互いどこの誰とも知らぬ相手と、一夜のアバンチュールを楽しむのも、悪くない。
兄に知れたら、この背中は、血まみれになるだろうなと思いながらも、カノンは、青春を謳歌していた。
だがその夜ついに、悪運は尽きた。王妃とダンスを楽しんでいた男爵が、酔った勢いで王妃の仮面を剥ぎ取ったのだ。
宮殿への出入りが許されていなくても、王妃の顔ぐらいは皆、知っている。この国の通貨に刻まれているし、国王夫妻の肖像画は、国中に行き渡っている。場内が、騒然とし始めた。
カノンの動きは素早く、そして判断は、適格だった。
「女官長。王妃さまを、観覧席にお連れ申せ」
そして、王妃に向かって
「畏れながら、仮面をお取り遊ばして、観覧席でご覧下さい。今宵王妃さまは、お忍びで仮装舞踏会を、ご視察遊ばされたのです」と申し上げた。
カノンの機転によって、王妃のご乱行は伏せられ、なんとか、事なきを得た。
明け方、宮殿へ戻った王妃は、国王から厳しい叱責を受けた。王妃の必死の取りなしのお陰で、随行した近衛兵や女官たちは、お咎めなしだった。
そして、カノンには
国王陛下のお咎めは免れても、近衛隊長の罰からは、逃れられない。夜勤明けの衛兵交代が済むと、すぐにヘミオラに、呼び出された。
兄は、怒ると無口になる。普段から、それほど口数が多いほうではないが、怒るといっそう寡黙になり、怖ろしい眼で、睨みつける。
「兄さま」
あまりの恐怖に、「職場では『隊長』と呼ぶ」という暗黙の了解も忘れて、カノンはヘミオラを、兄として呼んだ。兄の手にはすでに、皮鞭が握られている。
ヘミオラは、物も言わずにカノンに歩み寄り、弟の腕を乱暴に掴むと、懲罰台の前に連れて行き、俯せにすると、お尻を剥き出しにした。
「兄さま!!」
カノンは、悲鳴を上げた。
「いやです。罰は、背中に受けます。私はもう、子供ではありません」
「じっとしていられないのなら、縛り付けるぞ」
兄の声は、今まで聞いたこともないほど、冷たかった。カノンの瞳から、涙が溢れ出た。
「近衛兵には、お咎めなし。よってこれは、近衛隊長が与える罰ではない。兄としての、お仕置きだ」
兄のお仕置きは、未だかつて無いほど、厳しかった。カノンは泣き叫び、声が嗄れ、涙も枯れ果てた。
真っ赤に腫れ上がった尻の皮膚が裂け、血が太股に伝ったのを見て、ヘミオラはようやく、鞭を止めてやった。
カノンは息も絶え絶えで、ヘミオラに支えらながら辛うじて、懲罰台から身を起こし、ベッドに俯せに横たえられた。
傷の手当てをしてもらう間中、カノンはシーツを掴んで、枕に顔を埋めて、すすり泣いていた。
徹夜明けのカノンは、やがて睡魔に襲われ、深い眠りに落ちた。長い長い勤務から、ようやく開放された。
眼を覚ましたとき、もう外は、暗かった。背中に毛布をかけられ、尻には、ガーゼが当てられていた。
そっと、顔を上げると
カノンは、腕を伸ばして、兄の膝に縋りついた。ヘミオラは、弟をそっと抱き寄せてやりながら
「食事を摂れ」と言った。カノンは
「食べたくない」とそっぽを向いた。
「昨夜から、何も食べていない。腹が減っただろう」
「お尻が痛くて、起きあがれない」
ヘミオラは、カノンの首元に、クッションを何枚も差し込んでやり、横向きに起きあがらせた。そして、食事が載った盆をベッドの上に運び、スプーンでスープを掬った。
「そなたの、好物ばかりだぞ」
「痛くて、食べられない」
カノンは、駄々をこねた。本当は、空腹で目が回りそうだが、意地っ張りのカノンは、兄の厳しすぎるお仕置きに、恨みを募らせ、素直になれない。
ヘミオラは、ふっとほくそ笑んで、スプーンを弟の口元に、運んでやった。
「こうすれば、食べられるであろう」
美味しそうな匂いが、鼻先にまとわりつき、とうとうカノンは、口を開けた。
一口すすると、一挙に空腹が、押し寄せてきた。兄に食べさせてもらいながら、飢えた雛鳥のように、カノンは、食事を貪った。
「美味いだろう」
カノンは、素直に頷いた。
「ここの食事は、宮殿の厨房で作られる。そなたは、陛下と同じ御膳を、頂いているのだぞ」
「だから兄さまは、最近、屋敷に戻ってこないの?」
ヘミオラは最近、この私室に泊まり込むことが、多くなっている。
「バカを言うな。隊長ともなると、帰りたくても帰れないことが、ままあるのだ。それに」と言ってヘミオラは、弟の口元を、ナプキンで拭いてやりながら
「目を離すと、何をしでかすかわからぬ部下もいるのでな」と言って、にやりと笑った。カノンはふくれっ面をして、そっぽを向いた。そして、顔を背けたまま
「まだ、怒ってる?」と尋ねた。ヘミオラは、カノンの顎に手を掛け、自分と向き合わせ
「明日は、国王陛下主催の狩がある。お供せよ」と、新たな任務を命じた。
これは、任務などではない。拷問だ。カノンは、狩の間中、尻の痛みに、必死に耐えた。
兄に鞭打たれた尻は、馬に揺られるたびに鞍に擦れ、悲鳴をあげそうな痛みを、カノンに与えた。きっと、傷口が開いたのだろう。
狩を終えたカノンは、兄の私室へ駆け込み、自分でズボンを下ろした。尻に当たるものは、何であろうと痛い。
ヘミオラは、少しも動じず、ガーゼを外して傷跡を消毒し、薬を塗ってやった。
「痛い、痛いよ。兄さま」
「じっとしていろ」
「ひどい。こんなお仕置き」
カノンは、兄の胸ぐらを掴んだ。
「私は陛下から、感謝のお言葉を賜ったのに、兄さまは、褒めてくれない。陛下からは、随行の近衛兵には、お咎めなしとのお達しだったのに、こんな・・・こんなの、ひどすぎる」
「そなたの言い分は、もっともだ」
ヘミオラはそう言って、カノンを膝の上に抱き寄せた。
「カノン、よく聴け」
兄の声に、今までにない、凄味と真剣さを感じ取ったカノンは、兄の膝から半身を起こし、正面から見据えた。
「宮殿は、権謀術数が渦巻く、伏魔殿だ。
他国との戦が絶えなかった頃なら、いざ知らず、敵国のほとんどを平定し、一大帝国を築き上げた今の我が国では、廷臣たちは、手柄を競い合う場がない」
「他者を妬み、誹謗中傷で引きずり落ろさんとする者。権力者にすり寄り、甘い汁を吸おうとする者。陛下のご寵愛を得んがために、口先だけの甘言を弄する者。
今の宮中は、乱れきっている」
「そして、旧王族として代々、重臣に連なっている我らは、常に、廷臣たちの嫉妬を買っている。隙あらば、引きずりおろさんと、鵜の目鷹の目で狙われている」
カノンは、思わず息を呑んだ。こんなに饒舌な兄を見たのは、初めてだった。
「私が26歳で、史上最年少の近衛隊長に昇進したときも、この人事を阻もうと、裏でさまざまな陰謀が、働いた」
「・・・にい・・さま」
カノンの声は、かすれ、震えた。自分が、暢気に士官学校での生活を楽しんでいた頃、兄は、そんな修羅場をくぐっていたのか。しかし兄は、そんなそぶりは、露程も見せなかった。
ヘミオラは、手を伸ばし、カノンの頬を掌で包み込んだ。
「そなたは昔から、明るくて、無邪気で、人懐こい。その性格は、私の救いで慰めだが、同時に、腹黒い人間に、付け入る隙を与えかねない。諸刃の刃だ」
「王家の縁戚に連なる我ら兄弟を、利用しようと近づいてくる人間は、山ほどいる。私たちは、名門としての矜持を忘れず、常に厳しく己を戒め、王家と公爵家を護らねばならぬ」
カノンは、頬を包んでくれている兄の手の上に、自分の掌を重ねた。
「陛下の寛大なご処分を良いことに、私を不問に処したりなされば、兄さまは、弟一人も御しきれない、無能な近衛隊長だとの、誹りを受けられるかも知れない」
「・・・カノン?」
「私が、浅はかでした。お許しください」
ヘミオラは、思わずカノンを、胸元に抱き寄せた。自分の真意を、弟が正しく汲み取ってくれたことが、嬉しかった。
「痛い、お尻が痛いよ」
兄に抱き寄せられ、傷だらけのお尻が、ベッドのマットに擦れたカノンは、悲鳴を上げた。
「すまぬ。そなたの傷を、忘れていた」
「ひどい」
「悪かった」
「私のお尻を、こんなになさったのは、兄さまなのに」
「だから、悪かったと詫びているではないか」
カノンは、ぷいと顔を背けた。甘ったれな弟は、少しだけ兄を、困らせてやりたくなった。
「カノン。悪かった。これ、機嫌を直せ」
「知らない」
「カノン」
弟は、物も言わずに、兄の胸に顔を埋めた。涙が溢れ出た。
兄が屋敷に戻ってこないのは、決まって、自分の夜勤の日だ。兄はいつも、遠くから、見守ってくれていたのだ。
厳しく接することで、嫉妬から来る非難や中傷から、自分を庇ってくれていたのだ。兄の深い思いに気づかなかったことを、カノンは、泣きながら詫びた。
ヘミオラは、そんな弟が泣き疲れて眠るまで、背中を撫で続けてやった。
翌朝カノンは、熱を出した。
「おとなしく寝ていろ」
「でも」
「これで、堂々とそなたを、休ませてやれる」
今までヘミオラは、カノンを罰したあとは必ず、謹慎を命じた。名目上は罰だが、実際は鞭打ちの傷を癒すための、休暇だった。
だが今回は、国王陛下からお咎めなしとのお達しがあった手前、カノンに謹慎を命じるわけにいかなかった。尻の傷が悪化することを承知で、狩のお供をさせた。
だが熱が出れば、堂々と病欠させられる。国王にも王妃にも、申し訳がたつ。
国王からは
カノンは、兄の思慮深さと慧眼に、あらためて感服した。
その日の夜、執務を終えて戻ってきたヘミオラに、カノンは改まった口調で呼びかけた。
「兄上」
弟の呼びかけに、ヘミオラは一瞬、おやっというような表情を浮かべ
「なんだ?」と応えた。
「これからは、兄上お一人に、ご苦労はおかけしません。兄上の片腕となって、家名と王家を、お護りします」
ヘミオラは、カノンの傍らに腰をおろし、弟の額に手を当て
「まだ、熱が下がらぬか?」とからかった。
「兄さ・・・兄上」
「兄さまでよい。そなたに、兄上などと呼ばれると、居心地が悪い」
「私は本気で・・・」
「分かっている」
ヘミオラはそう言って、弟を抱き寄せた。
「そなたの、その気持ちだけで十分だ。そなたの無邪気さは、私の救いで、慰めなのだから」
「兄さま?」
「無理をするな。そなたは私を頼り、私に縋り、私に、甘えておればよいのだ」
「そうやってすぐ、私を子供扱いなさる」
「仕方あるまい。実際、子供なのだから」
「もう、子供ではありません」
「生意気な口を叩くと、またお仕置きをするぞ」
カノンは、ベッドに潜り込み
ヘミオラは、その布団を剥ぎ取り
カノンは、物も言わずに、ヘミオラの胸に飛び込んだ。
「こら、カノン。カノン!!!」
ヘミオラは、いきなり抱きついてきた弟の衝撃を受け止め損ね、思わず噎せ混んだ。
「カノン!」
叱りつけた兄の胸元から、顔を上げ、カノンは
「騎士は、いかなるときも油断せぬもの」と言って、ぺろっと舌を出した。
「こいつ」
ヘミオラは、生意気な弟を膝の上にうつ伏せにし、お尻を1発だけ平手でぶった。
カノンは悲鳴をあげて、兄の膝に縋りついた。