騎士物語 4
15歳になり、近衛兵に任官したカノンに、母は
「今後は、この母が、貴方にお仕置きをすることは、二度とありません」と告げた。
「今日から貴方は、兄であり上官であるヘミオラさまのお導きの元、公爵家の名に恥じぬ騎士になるべく、精進なさい」
その日から、カノンにとってヘミオラは、私生活での保護者であり、職場での上官となった。罪を犯せば、兄のお仕置きか、隊長の罰が待っている。
しかしカノンは、高をくくっていた。あの優しい兄さまが、お仕置きをするはずがない。
今まで、兄に叱られたことは、一度もない。カノンは、ヘミオラ兄さまの、優しい笑顔と穏やかな声しか知らない。
それだけに、近衛隊に入隊して、初めて隊長としての兄を見たときには、心底驚いた。眼光鋭い、切れ者の隊長に、見慣れた兄の表情は、ひとかけらもなかった。
職場では、兄は、一切の私情を挟まなかった。カノンもヘミオラを「隊長」と呼び、隊長の弟という特別待遇は、いっさいなかった。
しかし、任務を離れれば、ヘミオラは今まで通りの、優しい兄だった。
カノンが近衛兵になって、1ヶ月が過ぎようとした頃、領地の地主が、カノンの士官のお祝いに、息子を連れてやって来た。
ヘミオラより2歳年上の地主は、彼の幼少期の遊び相手で、その息子は、カノンの弟分だった。豪放磊落だった父は、領地の地主や領民たちと、気さくに交わった。
ヘミオラとカノンは、領民の子供たちと、よく遊んだ。
あるときヘミオラが、地主の息子と大げんかして負かされ、泣きながら屋敷に戻ったことがあった。
領主の跡取りを泣かせたというので、地主は大あわてで詫びに行ったが、父は
「子供どうしの喧嘩だ」と一笑に付した。
「ヘミオラは、学友同士の間では、一番強いらしいが、世間には自分より強い者がいると知って、良い戒めになったであろう。決して、倅を叱ってはならぬぞ」
そう言って父は、そのまま地主を屋敷に招き入れ、無礼講の酒盛りを始めた。
このときの父の態度から、ヘミオラは、騎士としての生き方を学んだ。身分は、自分を護ってはくれない。
人の上に立ちたければ、抜きんでた実力と高潔な人徳で、他者からの信頼と尊敬を、勝ち得なければならない。
父が、領民から慕われ、家人から敬われ、国王の全幅の信頼を得ているのは、父の身分ゆえではなく、己に厳しく他者に寛容な、父の生き方が、そうさせているのだ。
あのとき、自分を泣かせた息子が、父の跡を継いで地主となり、同様に父の後を継いで領主となった、自分の目の前にいる。
父の意志を継いだヘミオラは、領民との接し方も、父とまったく、同じだった。
「カノンさま、遊ぼう」と言って、弟にじゃれつく、地主の息子に
「大きくなったな、トニカ。幾つになった?」と、満面の笑みで尋ねた。トニカは、自分の名付け親でもあるヘミオラに、臆することなく歩みより
「8歳」と応えた。
ヘミオラは、満面の笑みで
「カノンと遊ぶがよい」と言い、自身は、昔なじみの地主と旧交を温め合った。
家では末っ子、職場では最年少のカノンは、久しぶりに、年下の相手に会ってはしゃいだ。トニカにせがまれるままに、遊び相手をしてやり、庭の木に登った。
そして、枝から地面に飛び降り、上を見上げると、トニカは、怖ろしそうに自分を見下ろしている。
「どうした?」
「怖い」
「大丈夫だ。抱き留めてやるから。ここへ向かって、飛び降りろ」とカノンは、自分の胸を叩きながら言ったが、トニカは、泣き出した。
15歳のカノンにとっては、なんでもない高さでも、8歳のトニカにとっては、怖ろしくて飛び降りられる高さではない。
「トニカ、大丈夫だ。来い」
少年は、勇気を振り絞った。カノンの胸をめがけて、飛び降りたつもりだったが、枝から無様に落ちた。
カノンは、トニカを抱き留めようと走ったが、勢いがついていない分、まっさかまに落下したため、間に合わなかった。
落ちた拍子に、幹の根本で脚をくじき、トニカは、火がついたように、泣き出した。
ヘミオラは、すぐに主治医を呼んだ。幸い、トニカの脚は、軽いねんざで、たいしたことはなかった。ヘミオラは親子の面前で、カノンの横面を張った。
「そなたがついていながら、なんということをするのだ」
カノンは、怒った兄の顔を、初めて見た。驚きと頬をぶたれた痛みで、口もきけない。
「ヘミオラさま。悪いのは、わが倅です。カノンさまに、罪はございません」
「いいや。カノンが、トニカに無茶をさせたのが、いけないのだ」
ヘミオラは、トニカを抱き上げ
「済まなかったな」と詫びた。手厚い治療を受けて、すっかり元気になったトニカは
「平気だよ」と笑った。
「そなたは、父に似て、元気な良い子だ」
ヘミオラはそう言って、トニカを床におろし、跪いて、少年の目線に合わせながら
「父の言うことを良く聞いて、すこやかに育て。そなたの父は、我が公爵家代々の信任厚い、地主なのだぞ」と言った。
ヘミオラは、親子を公爵家の馬車で、家まで送らせた。
カノンは、混乱していた。生まれて初めて兄に手を挙げられ、しかも人前で殴られ、兄が、自分以外の者を、抱き上げるのを見た。
嫉妬と、怒りと、寂しさと、悲しさと、ショックが、一挙に押し寄せてきた。
近衛兵になってから、職場での兄は、別人のように、よそよそしかった。
しかしそれはまだ、公私の区別をつけねばならぬということで、理解も出来たし、納得も出来た。
だが今日は、ちがう。自分は、木から落ちたトニカを救おうと、必死で走ったのだ。間に合わなかったが。
トニカを抱き留めるべく、落下地点に滑り込んだカノンの腕は、擦り傷だらけだ。それなのに兄は、その傷を、労ってもくれない。涙が、こみ上げてきた。
荒々しくドアを開けて、部屋に入ってきたヘミオラを、カノンは睨みつけた。
「大事な領民に、怪我をさせるとは、何事だ?」
「私が怪我をさせたのではありません」
「そなたが飛び降りろと命じたから、トニカは無茶をしたのだ」
「違います!!」
「目上の者が目下の者と共にいるときは、相手を気遣うのが当然だ。15歳にもなって、そんなこともわからぬのか」
「私がトニカぐらいの年の頃には、あの木からは、飛び降りられました」
ヘミオラはカノンに歩み寄ると、腕を掴みながらベッドに腰掛け、弟を膝の上にうつ伏せにした。
「放せ、いやだ」
必死の抵抗もかなわず、カノンはズボンをおろされ、お尻を剥き出しにされた。
「イヤだ、放せ。やめろ」
ヘミオラは、剥き出しにした弟の尻を、平手で打ち据えた。痛みにカノンは、のけぞった。
「痛い、放せ」
「自分が出来たから、相手にも出来るだろうなどという理屈は通らぬ。
相手の力量も見極められず、無茶な命令を下す、そなたのような愚かな武官が、部下を死地に追いやるのだ」
ヘミオラは叱りながら、カノンのお尻をぶち続けた。カノンは打たれるたびに、のけぞって悲鳴をあげ、ついには泣き出した。
ヘミオラは、カノンの尻が真っ赤に腫れ上がった頃、ようやくお仕置きをやめてくれた。
膝から下ろされたカノンは、そのまま床にうずくまった。ヘミオラは
「立て」と命じたが、カノンはうずくまって泣きじゃくったまま、言うことを聞かない。
「カノン、立て」
腕を掴んで立たそうとしたが、カノンは、それを振り払った。
「もうよい。気が済むまで、そうしていろ。そなたが過ちを認めて詫びるまで、私は許さぬぞ」
ヘミオラは、そのまま部屋を出て行った。
床に蹲り、泣きじゃくっていたカノンは、やがて立ち上がり、ズボンを穿いた。
生まれて初めて、兄にお仕置きをされた衝撃は、じわじわと、カノンの胸中を蝕んだ。
痛みは怒りに、子供のようなお仕置きをされた羞恥は恨みに、頭ごなしに怒鳴れた恐怖は憎しみに変貌した。
今日は夕方から、兄と久々に、遠乗りに出かけようと約束していた。何日も前から、楽しみにしていたのに。西のほうの空が暗い。雨が来る。
カノンは、亡き父の書斎に忍び込み、父の秘蔵酒を1本、無造作につかみ取ると、そのまま厩舎へ向かい、馬に飛び乗った。
盥をひっくり返したような雷雨に打たれ、カノンは酒をラッパ飲みしながら、馬を駆った。飲み干した酒瓶を投げ捨て、朦朧とした意識の中で、滅茶苦茶に愛馬を走らせた。
涙と雨の両方に濡れて、視界がきかないが、酔ったカノンには、もうどうでも良いことだった。
「兄さまなんか、大嫌いだ」と毒づきながら、愛馬にさらに鞭をくれ、全力疾走した。
領地の中の森を駆けめぐり、なだらかな起伏にさしかかったとき、突然、衝撃が全身を貫いた。
いつもなら、なんなく駆け抜けられる所だが、雨で濡れた草に、馬が脚をとられたのと、騎手のカノンが泥酔状態で、冷静な判断ができなかった。
馬上から投げ出された瞬間、カノンの脳裏に、ヘミオラの笑顔がよぎった。
夕食の時間になって、カノンがいないことに気づいた公爵家は、大騒ぎになった。
ヘミオラはすぐに、厩舎へ向かった。案の定、カノンの愛馬がない。ヘミオラは、自分の馬に飛び乗ると、屋敷を飛び出していった。遠乗りの約束を、兄は覚えていた。
いつも二人で馬を走らせるコースを、丹念に探った。しかし、カノンはどこにもいない。
途中で、道ばたに転がっている酒瓶を見つけたヘミオラは、馬から降り、それを手にとって、天を仰いだ。父の秘蔵酒に、間違いない。
あのバカ、酒を飲みながら、馬を走らせたのか。
森のはずれで、ぐったりと横たわっているカノンを見つけたときには、もう日は、とっぷりと暮れていた。
「カノン!!!」
駆け寄って抱き寄せると、弟は、かすかに目を開いた。
「・・・にい・・さ・・・」
「カノン、聞こえるか?カノン」
落馬による打ち身と、傾斜を滑り落ちたときの擦り傷と、雨に打たれた発熱。骨折しなかったのは、奇跡としか言いようがない。
それが、主治医の見立てだった。だがヘミオラは、腕の擦り傷だけは、落馬の時の傷ではないと知っていた。これは、トニカを助けようとしたときの傷だ。
ヘミオラは一晩中、カノンのそばに付き添った。
夜更けにじいやが、温かいブランデーを持って、入ってきた。ヘミオラ・カノン兄弟を育てた、養育係の前でだけは、ヘミオラも、素顔をさらけ出す。
「お風邪を召しますぞ」
「私は、大丈夫だ」
「なんでも、一人で抱え込んでしまわれるのは、ヘミオラさまの悪い癖です」
「爺」
「はい」
「カノンは生涯、私を恨むであろうな」
「亡き旦那さまも、よく、そうおっしゃっておられました。『ヘミオラは、生涯私を、恨むかもしれぬ。カノンは、死ぬまで私を、許さぬかもしれぬ』と」
「旦那さまが生きておられたら、ヘミオラさまと同じ事を、いや、もっときついお仕置きをなさったでしょう。今頃カノンさまのお尻は、血まみれになっておられたかもしれませんな」
「父上のお仕置きは、厳しかったからな」
「馬と男の子は、鞭を受けた数が多いほど、良く育つと、おっしゃっておられました」
ヘミオラは、思わず吹き出した。なんと、野蛮な教育方針だ。
「ヘミオラさま。旦那さまがお亡くなりになったあと、なぜすぐに、カノンさまへの教育権を、行使なさいませなんだか?」
「母上がおられた」
「畏れながら、男子の教育には、男親にしか出来ぬ事もございます。ヘミオラさまが、ご成人あそばすまで、お父上の躾を、お受けになったように」
「行使しなかったのではない・・・出来なかったのだ」
ヘミオラは、とうとう本音を吐いた。
「父上が亡くなったとき、私はまだ、20歳の若造だった。爵位を継ぎ、当主となり、近衛隊の任務と、領地の治世と、社交界での付き合い。
この双肩にのしかかってきた重荷に喘いでいた。カノンの無邪気な笑顔は、私の唯一の救いであり、慰めだった」
じいやは、黙って頷いた。
父の死は、早すぎた。そして、王家の縁戚に連なるコンツェルティーノ公爵家を継ぐ重責は、20歳の若者には、あまりに過酷だった。
「どんなに疲れて帰ってきても、カノンが笑顔で出迎えてくれれば、それだけで、私は幸せになれた。この子の笑顔を守るためなら、どんな苦労も厭わないと思えた。だから」
そう言ってヘミオラは、酒を煽った。
「泣き顔を見たくなかった。叱ればカノンは、必ず泣く。それが怖かった」
苦しそうに寝返りを打ったカノンの様子に、ヘミオラは立ち上がり、ベッドの端に腰掛けて、弟の額の汗を拭ってやりながら
「だがこれからは、そうはいかぬ」と言った。
「爺の申すとおりだ。母上は、カノンに申し分のない、貴公子としての躾をしてくださったが、貴婦人に、騎士の教育は出来ぬ。
これからは私が、父上に代わって、カノンを一人前の騎士に、育て上げねばならぬ」
「カノンは、我が公爵家の息子だ。家名に恥じぬ、一流の騎士にならねばならぬ。それが、名家に生まれた者の宿命だ。
私は、心を鬼にして、カノンを一人前の騎士に、育て上げてみせる」
48歳の若さで父が没してのち、コンツェルティーノ公爵家は、世間の好奇の目にさらされ続けている。
若き未亡人と、年の離れた異母兄弟だけが残された名家の落魄を、誰もが予想し、興味津々で、その行く末を見守った。
近衛兵として宮廷に仕官し、成人貴族として社交界にデビューしたからには、これからはカノンも、公爵家の一員として、噂好きの社交界の風評に晒される。
もはや、懐深く翼の中で護ってやれない以上、ヘミオラはカノンに、自らの翼で飛ぶ術を教えねばならない。
眼を覚ますと、兄がベッドの端に腰掛けて、顔を覗き込んでいた。カノンは起き上がろうとして、全身の痛みに呻いた。
「じっとしていろ」
ヘミオラは弟を制し、額に手を当てた。まだ、熱は高い。
「おとなしく、寝ていろ」
「行かないで」
カノンは、ヘミオラの腕を掴んだ。
「もう出仕の時間だ。行かねばならぬ」
「お仕事と私と、どちらが大切なの?」
そう叫んで、カノンは顔を背けた。きっと兄は、激怒するだろう。だがカノンは、自分が抑えられなかった。
「そなたに決まっている」
怒鳴られることを覚悟して、身を固くしていたカノンは、思ってもみなかった、意外な返事に思わず、掴んでいた兄の腕を放した。
「行ってくる」
そう言いながら、指先で頬に伝った涙を拭ってくれた兄に、カノンは何も言えず、黙って兄を見上げた。
カノンが次に眼を覚ましたとき、辺りはもう、暗かった。部屋には、じいやがいた。
「お目覚めでございますか?」
「兄さまは?」
「まだ、お戻りではありません」
起き上がろうとしたカノンに、じいやは、背中にクッションを当ててくれた。
「ご無理をなさいますな」
背中に枕とクッションを当てて、横向きにさせ、肩まで布団をかけてくれたじいやに
「すまない」と詫びると、長年の養育係は
「そのお言葉は、わたくしにではなく、ヘミオラさまにおっしゃい」とたしなめた。
「ヘミオラさまは昨夜、一睡もなさっておられません。あなたさまを、抱きかかえてお戻りになられ、そのままずっと、おそばについておられました」
カノンは、ヘミオラに抱きかかえられ、馬に乗せられたことまでは覚えていたが、その後の記憶がなかった。
傷の痛みと熱にうなされ、時折誰かが、額の汗を拭ってくれる感触は覚えていたが、あれは、兄だったのか。
「そんなに心配するのなら、あんなひどいお仕置きを、しなければ良いんだ」
カノンは、憎まれ口を叩いた。生まれて初めて、兄からお仕置きを受けたショックが、まだ癒えない。
じいやは、穏やかに微笑んだ。きかん気でやんちゃな次男坊の性格は、よく知っている。昨夜の、ヘミオラの告白と決意を、カノンに語った。
カノンは、枕元に顔を埋めた。それが、涙を見られたくない、カノンの精一杯の強がりだということを、よく知っているじいやは
「そろそろ、ヘミオラさまが、お戻りになられる頃ですな」と言って、静かに部屋を出て行った。
そのまま、隣室のヘミオラの部屋を訪ねると、若き当主は、じいやを睨みつけた。
「余計なことを、カノンに、べらべらしゃべるな」
「立ち聞きとは、騎士にあるまじき、お振る舞い」
ヘミオラは反論しかけて、口をつぐんだ。この爺にだけは、頭があがらない。
「なんでも、一人で抱え込むのは、あなたさまの悪い癖です」
「うるさい」
「口答えをなさいますか?爺は、ヘミオラさまの養育係ですぞ。今からでも、お尻のひとつやふたつ、ぶってさしあげてもようございますぞ」
ヘミオラは、とうとう吹き出した。本心では、意地っ張りの弟と、どう対峙すればよいのか、途方に暮れていた。
じいやの仲立ちがなければ、何れ劣らぬ頑固者どうしの兄弟は、このまま、決裂したかもしれない。
「爺」
「はい」
「兄弟揃って、苦労をかける」
「なんの」
「父上亡き今、そなただけが頼りだ。末永く、我ら兄弟を、見守ってくれ」
「命の限り、お二方をお守りします。この爺が、慈しんでお育て申し上げた、自慢のご兄弟ですからな」
気配に気づいたカノンは、そっと枕元から、顔を上げた。兄は、黙ってベッドの端に腰掛け、弟の額に手を当てた。熱は、ほぼ下がったようだ。
「兄さま」
「ん?」
「兄さま」
「なんだ?」
「兄さま」
「だから、なんだ?」
カノンの瞳から、涙が溢れ出た。だが、どうしても告げねばならない一言が、出ない。考えてみれば、これから口にしなければならない一言は、今まで、兄が促してくれていたのだ。
「私も一緒に詫びてやる」と諭されて、ようやく父に、母に、その一言が言えたのだ。その仲介役が、今はいない。この期に及んでも強情な弟は、涙を流しながら、口を閉ざしている。ヘミオラは、苦笑を漏らした。
カノンの顎に手を掛け、顔を上げさせながら
「無謀で、意地っ張りで、未熟で、我が儘な甘ったれを、一人前の騎士に育て上げねばならないとは。亡き父上も、とんだ遺産を残していってくれたものだ」と言った。
しかし、文言の辛辣さとは裏腹に、兄の声は優しく、その顔には、微笑みさえ浮かんでいた。
「・・・ごめんなさい」
ヘミオラは、掌でカノンの頬を包み込み
「やっと言えたか」と言って、苦笑した。
「そなたの口から、その言葉が出ぬ限り、許したくても、許せぬではないか」
カノンは身体中の痛みも忘れて、両腕を伸ばして、兄に縋りついた。
「もうしない」
しゃくりあげながら、告げるカノンに
「今度悪いことをしたら、次は、鞭を使うぞ」と脅すと、カノンは
「次は、もうありません」と言った。
「あんなに痛いお仕置きは、もうこりごりです」
「その言葉、忘れるでないぞ」
「はい」
「そなたの泣き顔を見るのは、何より辛い」
泣き止んだばかりのカノンの瞳から、再び大粒の涙が、流れ落ちた。
兄が、どれほどの覚悟で自分を罰したか、どんなに心配をかけたか、様々な思いが脳裏をよぎり、涙が止まらない。
カノンは、すすり泣きながら、兄を見上げた。
「今朝、お仕事より私が大切とおっしゃったのは、ご本心から?」
甘ったれの弟には、どうしても、兄に確かめたいことがあった。
「むろんだ」
兄は、一瞬の躊躇もなく、応えた。
「私にとってそなたは、この世で一番大切な宝物だ」
「トニカよりも?」
「分かり切ったことを聞くでない」
一番聞きたかった答えを得た弟が、泣き疲れて眠るまで、兄は、抱きしめてくれていた。
この日を境に、カノンにとってヘミオラは、この世で最も愛する存在であると同時に、最も怖い存在となった。
怖い者知らずのやんちゃ坊主が、唯一恐れるのは、兄の叱責とお仕置きだった。
次はもうない、というカノンの誓いは守られることなく、カノンはその後何度も、背中とお尻に鞭をふるわれた。
そのたびに、お仕置きの痛さと厳しさに、憎まれ口を叩きながらも、兄が自分に、自分だけに注いでくれている、深い思いと愛情への信頼は、揺らぐことはなかった。
コンツェルティーノ公爵家には、兄弟の肖像画が一枚だけあった。揃ってモデルになることが嫌いで、決して肖像画を描かせなかった二人が、生涯で、ただ一枚だけ描かせたその絵は、近衛隊の正装に身を固めた兄弟が並び立ち、絵師を
「絵のようにお美しいお二人を描くことなど、私の筆では、できませぬ」と、何度も嘆かせた労作だった。
公爵家の断絶後、その絵の行方を知る者は、誰もいない。