頌歌愛吟
天窓から、月光が差し込む。
ガチャリと、錠が外される音がして、重たい扉が開いた。
入ってきた牢番は、文机の上の、白紙のままの紙の束を見て、
「お書きにならないのですか?」と尋ねた。
囚人は、黙って頷いた。
明朝の死刑執行を前に、遺言状を書くことを許されたが、彼が遺言を託したい相手は、もはや誰一人、この世にはいない。
それに、この世に何も残す気は、なかった。
思い残すことは、何もない。
見るべきものは、見つ。
「もし、かなうならば、燭台を残して行ってくれぬか?」
「かしこまりました」
牢番はそう言って、白紙の紙の束とインク壺だけを取り上げ、深々と頭を下げて、出て行った。
ここに収監された囚人には、敬語を使うことも、丁重な扱いも、禁じられている。
しかし、貧しい平民の子として生まれ、貴族を腹の底から憎む、生粋の革命の戦士をして、その禁を犯せしむるだけの、何人の蹂躙も許さない侵しがたい気品を、囚人は纏っていた。
扉が閉ざされると、彼は、上着の胸ポケットから、折りたたんだ紙片を取り出した。
丹念に読み返し、一瞬、虚空を仰ぎ、わずかに微笑んで、その紙片を、蝋燭にかざした。
燃え尽きた紙片を掌の中に、愛おしそうに握りしめ、彼は、粗末な寝台に腰掛け、ゆらゆらと燃える蝋燭の炎に見入った。
明日で、すべてが終わる。
あっという間の生涯だった。
自分をこの世につかわした、偉大なる神の慈愛に報いる術も持たない、無力で愚かな存在ではあったが、一瞬たりとも悔いなく、与えられた生を生きた。
愛し、怒り、泣き、苦しみもがき、悩み、傷つき、笑い、楽しみ、謳歌した。
なかなかに、面白い人生だった。
「ヘミオラさま」
初恋の人の声が、脳裏に蘇る。
一度で良いから、ヘミオラさまではなく、ヘミオラと呼んで欲しかった。
思い残すことがあるとすれば、それだけか。
死出の旅路を前にして、私は、何を考えているのやら・・・
彼は、自らの両腕を枕にして、寝台に静かに横たわった。
一瞬、天窓から差し込む月光が、雲に隠れた。
兄が、最後まで明かさなかった初恋の相手が、自分の母だと知って、弟は怒ったのだろうか。
それとも、この世で最期の夜を過ごす兄が、自分より先に、母に思いを馳せたことに嫉妬しているのだろうか。
「怒るなよ、カノン」
そっと、呟いた。
「初恋は、成就せぬからこそ美しい。そなたが生まれてのちは、私は彼女を、母としてしか、見ていなかった」
来月の5歳の誕生日プレゼントに、カノンは父に、ヴァイオリンをねだっていた。
兄が奏でる、ヴァイオリンの音色に、魅せられた。
やんちゃで甘ったれの弟は、13歳年上の兄が大好きだ。
兄のすることをなんでも真似したがり、どこへ行くにもついて行きたがり、近衛隊に出仕する兄を、毎朝泣いて引き留めて、困らせる。
弟は、誕生日を待てなかった。
兄の留守中に、こっそり部屋に忍び込み、兄の愛器を手に取った。
おそるおそる、見よう見まねで、弓を弦に這わせてみる。
ギィーーッッ
磨りガラスを引っ掻くような、おぞましい音が鳴った。
どんなにあがいても、兄が奏でるときの、鳥肌が立つような美音が鳴らない。
癇癪を起こし、ヴァイオリンを床に、何度も叩きつけた。ネックが折れ、代々公爵家が所蔵してきた名器は、見るも無惨な姿に変わり果てた。
カノンは父から、お尻が真っ赤に腫れ上がるほどお仕置きをされ、誕生日のプレゼントは無しにされた。
ヘミオラには、コンツェルティーノ家が所蔵する、もう一丁のストラディヴァリウスが譲り渡された。
だが、使い慣れた愛器を壊されたヘミオラの怒りは、容易には収まらなかった。
しばらく、弟と口をきいてやらなかった。
何日かして、勤務を終えて帰宅すると、部屋の机の上に、奇妙な物が置かれていた。
短く切ったもみの木の葉を十字に重ね合わせて紐で縛り、その中心を菱形に囲むように、シルクのリボンが結ばれている。
じいやを呼び、ヘミオラは
「これは、何のまじないだ?」と、尋ねた。
じいやは歩み寄り、ヘミオラの手の中にある、奇妙な物体をしげしげと眺め
「はてさて・・・なんでございましょう?」と呟きながら、首をかしげ
「わたくしには、勲章に見えますな」と言った。
「勲章だと?」
「そう言えば・・2,3日前に、カノンさまがわたくしに、大人の騎士が、贈られて一番喜ぶものは何か?とお尋ねになられましたな・・・」
独り言のようにつぶやきながら、じいやは部屋を出て行った。
「待て、爺。まだ、話は終わっておらぬ。おい」
ヘミオラは、ソファに寝転がり、もう一度じっくりと、手の中の物体を見た。
功名をたてた騎士に、国王から授けられる十字勲章。
これが、そうだと言うのか?
菱形に囲んだシルクのリボンには、見覚えがあった。
カノンのお気に入りの、上着の袖口を縁取っていた。
翌日は、デンファレで作った小さなリースが、置かれていた。
王家の紋章である太陽をかたどった、大日輪勲章は、十字勲章よりさらに格上で、将軍以上の階級にしか、授与されない。
私も、出世したものだな。
ヘミオラはふと、窓外を見やり、庭園を横切り、花壇に向かって歩いていく、カノンの姿を認めた。
心なしか、その背中は、震えているように見えた。
まだ、字が書けないカノンは、兄に詫び状を書くことができない。
「じいの嘘つき」
カノンは、小声で呟いた。
兄に詫び状を書きたいから、字を教えてくれと頼んだら、じいやは
「お手紙より、贈り物をなさいませ」と、入れ知恵した。
騎士が一番喜ぶ贈り物は、勲章だと、言ったくせに。
兄さまは相変わらず、口をきいてくれない。
途方に暮れた小さな弟は、咲き誇る花の前で立ち止まった。
これをたくさん摘んで、お部屋中に飾って差し上げよう。
これは確か、兄さまが一番、お好きな花だ。
咲き誇る薔薇の蔦に伸ばした手を、背後から掴まれた。
「?」
「薔薇には刺がある。不用意に触ると、怪我をするぞ」
振り仰ぐと、いつもの見慣れた、優しい微笑みを浮かべている兄が、立っていた。
怯えたような表情で自分を見上げる弟を、ヘミオラは黙って、抱き上げた。
「ご覧。これが、薔薇の刺だ」
弟に見せてやろうと、茎に伸ばしたヘミオラの指先に、薔薇の刺が突きささった。
「っ痛」
「兄さまっっ」
ヘミオラは、血が出た指先を口元に含みながら、心配そうに、自分の掌に小さな手を添えるカノンに、笑いかけた。
自分のことより、真っ先に兄の身を案じる幼い弟が、いじらしくてたまらない。
「そなたに意地悪をしたから、罰が当たったな」
久々に見た兄の笑顔が、弟の張りつめていた緊張を、解きほぐした。
カノンは、兄の首筋に両腕を巻き付け、胸元に縋りついて、泣きじゃくった。
ヘミオラは苦笑しながら、カノンをしっかりと抱き直し、傍らのベンチに腰を下ろした。
「そなたからの贈り物は、陛下から賜るご褒美より嬉しかった」
「私はもう怒っておらぬ。だから、泣くのはおよし」
なだめてもすかしても、弟は泣き止まない。
「まるで、大きな赤ん坊だな。そなたは」
乳母に教わりながら、赤ん坊のカノンをあやした時のことを思い出しながら、ヘミオラは、泣きじゃくる弟の背中を、優しくとんとんと叩き続けてやった。
カノンはようやく、泣き止んだ。そして、おそるおそる、兄を見上げた。
「本当に、本当に、怒ってない?」
「ああ」
「また、いっしょに遊んでくれる?」
「むろんだ」
「剣を教えてくれる?」
「望むところだ」
「お馬に乗っけてくれる?」
「遠乗りに、連れて行ってやる」
「ご本を読んでくれる?」
「また、あの続きをな」
生涯ただ一度の兄弟喧嘩は、両成敗だった。
兄は、自分がいかに弟を愛しているかを思い知り、弟は、自分がどれほど兄を慕っているかを思い知らされた。
ヘミオラの取りなしで、父は、カノンの5歳の誕生日に、プレゼントを贈った。
ヴァイオリンではなく、クラヴサンを。カノンは、父からの贈り物に夢中になり、やがて、クラヴサンの名手になった。
ヘミオラが弾くヴァイオリンと、カノンが奏でるクラヴサン。
何れ劣らぬ名手どうしの共演は、宮廷音楽会の花形だった。
天窓から差し込む日の光に、囚人は、浅い眠りから目覚めた。
東の空が、白んでいる。今日は、晴れる。
不意に、涙が溢れた。
雨に打たれながらの処刑は、あまりに惨めだ。
彼は、起きあがり、寝台から立ち上がった。
天窓を仰ぎ、頬に伝った涙を、自らの指先で拭った。
「カノン・・・。そなたが晴らせてくれたのか?・・・すぐ行く・・・待っていろ」